
よく働くことを、群馬県では「せっこう[1]がいい」という。
東京から群馬県の倉渕へ転居し、就農してから1年目、隣りの畑のおじさんから「せっこうがいいね!」と声を掛けられ、「格好がいい? 作業着を褒められたのかな?」と首をひねった。
あとになって、それは「よく働く」という意味だと知った。しかし自分では、特別に頑張って働いているという意識はなかった。「朝が早いのは、百姓なら当たり前」と思っていたからだ。私の周囲の百姓たち[2]は、ほんとうに皆よく働く。働かなくてはいられない性分なのか。収穫=収入が不安定だから、働けるときに精いっぱい働くのか。
勤勉は美徳だから、「せっこうがいい」は、褒め言葉にちがいない。けれども、「よく働くね」なんて言われると、なんだか気恥ずかしい。こんなときは、「欲とふたりで働いているから」と切り返すのがよいかもしれない。
老子道徳経[3]の一節に「知足」という言葉があるが、足るを知って悟りを得た仙人なら、これほど百姓仕事も忙しくはあるまい。あれこれと何種類もの野菜の種を蒔き、実れば「勿体ないから」と、なんとか全部出荷してお金に替えようと奔走する。だから、忙しさから逃れることができない。
悟りへの道TAOに憧れつつも、さまざまな欲望から自由になることができない。たまには外食をして、身体に悪くても美味しい料理を食べたい。お金を使って海外旅行に行きたい。パソコンが必要だ。映画も観たい。子どもの喜ぶ顔が見たいので、おもちゃも買ってやる。高校へ行くようになると、授業料より交通費のほうが高く付くらしい。東京の大学へ行きたいなんて言い出したら、一体いくらお金が必要になるのだろう。
自給や知足が理想だが、子どもを育てることを考えると、自然医療や家庭内教育では限界があるので、ある程度の現金収入や蓄えが必要だ[4]。ただし、現金が必要なのは、医療費や教育費だけとは限らない。さまざまな情報が、私たちの欲望を喚起し、消費を煽る。なくても生活には困らないもの、風力発電機や新型の掃除機なんかが欲しくなってしまう。
消費の拡大は、経済成長でよいことなのだそうだ。果たして本当にそうなのか? 商品が開発され、貴重な地下資源が使われて、ゴミが増え、環境が汚染されて…という側面は、いつも別の問題として棚上げされる。農業の世界でも、設備投資をして営農規模を拡大し、農業収入と経営の安定化を図れなんて、しきりに主張する人もいるけれど、金利が安いからと融資を受けて大規模な設備投資をし、経営は予想どおりには行かず返済に追われ、けっきょく離農することになったという話を聞いたりもする。
有機JAS認証[5]の申請には、ポリマルチや消毒ずみの種の使用に関し、「原則禁止。ただし、やむを得ない事情がある場合、使用を認める」みたいな規定がある。百姓は「やむを得ない事情って、何だろう」と悩むのだけれど、それぞれのやむを得ない事情なんて、200字や400字では書き切れない。否、言葉や文章では、とても表現できない。もちろん模範回答は用意されているのだけれど、何だか馬鹿馬鹿しくって模範回答どおり書く気にはなれない。いっそのこと駄目なものは駄目で、全面禁止にしてもらったほうが、すっきりすると思うのだが…。
ポリマルチは、雑草の繁茂を防ぐとともに、土壌の水分を保ったり、地温を上げたりする。雑草の抑制や水分の保持は、稲わらなどの植物性マルチで代替が可能だが[6]、地温を維持するには、ポリマルチに代わるものが見当たらない。標高700メートルのわが家の畑は、春先と晩秋に地温が維持できないと、作物の収量が激減する。もともとポリマルチなしで栽培しているのは、米麦雑穀、ハーブ類、じゃがいも、春菊、小松菜、ほうれん草、カブ、長葱くらいで、その他の作物は、ポリマルチか生分解性マルチを利用している。
それでもポリマルチを使わずに何とかならないものかと、昨年の秋から少しずつ試している。大根は少し小さめで、成長も遅く、晩秋に凍りつくのも早いけれど、何とかやれそうな目処が立った[7]。ター菜も、寒さに強いので行けそうな気がする。来年は、チンゲン菜、くらかけ豆、大豆も、ポリマルチなしで栽培したい。
種は普通に買うと、たいてい、すでに消毒がされてしまっている。消毒していない種を手に入れるのは、容易ではない。そもそも農家の欲しい品種の種自体が限られている。味のよい品種、成りのよい品種、成長の早い品種、病気に強い品種、見た目や揃いのよい品種などなど、野菜の種ならなんでもよいというわけではない。自家採取で種を自給できれば一番よいのだが、在来種や固定種(種取りが可能な品種)で、農家、流通販売者、消費者の望む種がなかなか見当たらない。また、種取り自体、現在の農家の仕事に組み込むことが難しい。同じ科の他の品種(たとえば大根と小松菜とか)と交配しないように気を配ったり、葉物や大根、人参など花が咲く前に収穫してしまう作物は、通常よりも長い期間、世話をすることになる。品種の特性保持や経済性を考えると、種取りは専門業者に任せしてしまいたくなる。
わが家で種取りできているのは、米麦雑穀、かぼちゃ、ヤ-コン、花インゲン、じゃがいも、里芋、ハーブ類の一部、小豆と大豆は2年に一度。今年は新たに、インゲン、ズッキーニ、茄子、らっきょう、エシャロット、辛味大根の種を取ってみた。インゲン、ズッキーニ、茄子はF1の種なので、品種の特性が固定するのに何年かかかるだろう。種の特性が落ち着くまでは、必ずしも販売に適した野菜が実るとは限らない。それを我慢しつつ継続して種をつないでいくというのも、種取りの難しいところだ。
作物の味や栄養価、安全性、収穫・出荷量、安定性(安定供給)、荷姿(野菜の見た目)、流通販売者や消費者の嗜好、営農の経済性、周囲の環境や生態系などのすべてを考慮しつつ、農を生業として成立させているのが農家・農民だ。収量を捨てれば、有機栽培の理想は、ぐっと近づくにちがいない。しかし、実際には、収量ひとつを私は捨てることができない。自分の有機的な道への理想と現実的な作物の収量との境界線をどのあたりに引くか、つねに自分に問いかけながら、今ある自分の状況、条件、能力の中で、なんとかかんとかやっていくしかない。
欲が勝れば、収量を増やしたくなる。欲望に満ちた現代消費社会の真っ只中で、私たちは自分自身を欲望に支配される危険が常にはらんでいる。それでも志を強く持ち、欲に負けないように努めたい。禁欲的に欲望の一切を否定するのではなく、しかし肯定するのでもなく、自分の内なる欲望を冷静に見つめて戯れる。そのように「欲とふたり」で生きて行こうと思う。
