米を脱穀する|和田くんの就農スケッチ

和田くん

わが家[1]では、冬になると、窓硝子に着いた露が凍って、美しい結晶模様が見られる。露の結晶模様の多くは、六角形を基本とし、複雑なギザギザを這わせ、隣りの結晶と繋がっている。この結晶の輝きは、日が昇ると、融けてなくなり、夜になると、また現れる。結晶には2つとして同じ形はなく、その命は儚いけれど、その複雑で、それでいて調和的な結晶模様を、毎年、私は楽しんでいる。

雪国(新潟市)の生まれだからなのか、子どもの頃から雪の結晶模様に心惹かれるものがあった。肉眼では、雪の結晶を見たことはなかったが、写真や絵では、よく目にしていた記憶がある。おそらくそんなわけで、雪景色と露の結晶模様に懐かしさを感じるのかもしれない。

新潟市から電車で1時間ほど離れた巻町[2]に、母の実家があり、祖父と祖母が住んでいた。巻町への道は、新潟平野の田園地帯で、見渡すかぎり田んぼの続くところだった。電車の窓から見える風景は、春は田植え水田の水鏡が輝き、夏は緑稲、秋は金色の稲穂、冬は一面の雪景色・・・。

巻町の田んぼは、畦道に背の高い木が数本並んで立っている。この木に竹竿を水平に括り付けて、収穫した稲穂を乾かすための「はざ」にする。収穫の時期は、このはざに刈り取られ束ねられた稲穂が、4段5段と重ねて干してある光景が見られた。もう30年が経つが、この秋の田んぼの景色は今でも懐かしく、まぶたの裏にはっきりと見ることができる。

祖父母は、家の裏で小さな畑を耕し、自分の肥やしで自家用の野菜を作って暮らしていた。暗くて底の見えない汲み取り式の便所は子ども心にとても怖く、畑に撒いたばかりの肥やしは臭かったけれど、自分たちの排泄物を畑に返して野菜を育てる素朴な在り方、おそらく肥料や土壌改良剤、農薬などを買わない、他から多くを持ち込まない祖父母の暮らし方を、羨ましいと思う。

祖父は、畑から出てきた古銭や刀のつばを大事にしていて、ときどき幼かった私に見せてくれた。小学生のとき、その古銭と刀のつばを祖父から貰ったが、今でも私の宝物として大切に仕舞ってある。いつの日か、息子の太一と太緒に、私が自分の畑で見つけた古銭といっしょに、譲り渡すことになるのだろう。

いちばん好きな農作業は何かと訊かれたときは、ほとんど迷わず、お米の脱穀作業と答えている。お米に限らず、麦や雑穀など脱穀の作業はどれも楽しいのだが、お米の場合はひときわ感慨が深い。お米を販売しているわけではないので野菜ほどには熱心に稲の面倒を見てやっているわけではないのだが、それでも稲がお米になるまでには手間が掛かって、育苗、荒くれ、代かき、畦塗り、水見など、作業の場面場面で大変だと思うことがよくある。それが脱穀となると、わずか1日足らずで、1年分の籾米が目の前に現れる。春から秋までの苦労を忘れさせてくれるほどの、大きな喜びが湧き上がる。「これで1年間、食べていけるな。無事に正月を迎えることができそうだ」と思うのは、このときだ。

今年、自分たちが育てた餅米で、餅をついた。杵と臼は、友だちから借りて、餅つきも手伝ってもらった。太一と太緒は、遊ぶのに一所懸命で、あまり餅つきには熱心でなかったけれど、つきたての餅はおいしいらしく、よく食べた。結局あんまりおいしくて、いくらかは知り合いにお裾分けしたけれど、数日で5升分の餅を食べてしまうことになった。餅つきは、わが家の恒例行事になりそうだ。

倉渕[3]の田んぼの風景は、新潟平野の田園風景や山間地の棚田の景観とは少し違う。烏川沿いの比較的平らな地域は、こぢんまりとした田んぼが並んで見える。山や谷へ入ると、棚田というほどではないが、小さな田んぼが少しずつ段になっている。お米の乾燥は今でもほとんどの農家が天日干しで、稲穂を掛けるはざは「はんでい」と呼ばれているが、はんでいは稲刈り後の田んぼに杉や檜の間伐材を数本立て、竹竿を横に2段から4段ほど渡して作られる。倉渕では秋になると、田んぼのはんでいに、稲穂のかかった光景を見ることができる。けれど残念なことに、年々、休耕田は増えている。日当たりの悪い田んぼや小さな田んぼ、水利の悪い田んぼや水の抜けない田んぼから、荒れて草地になっていく。

田んぼに水が張られ、きらきらと水面が輝く季節。金色の稲穂が風に揺れ、トンボが飛び交う季節。私の好きな、この倉渕の田んぼの風景が、いつまでも続きますように。

この文章を書いた人
和田くん
愛妻よっちゃんとは、勤務先の野菜宅配会社で出会った。結婚後、野菜宅配会社を辞め、群馬県の倉渕へ移住。くらぶち草の会に加わり、有機農業を始める。現在は、新規就農者の世話を焼くのが、なにより楽しいらしい。手塚治虫のファンで、全集400巻を揃える。

脚注
  1. わが家は、群馬県高崎市倉渕町の、標高700メートルの山間地である。

  2. かつては新潟県西蒲原郡の巻町であったが、2005年、新潟市に編入され、ほとんどが新潟市西蒲区の一部となった。

  3. かつては群馬県群馬郡の倉渕村であったが、2006年、高崎市に編入され、高崎市倉渕町となった。