
朝早く林に入り、気に入った樹木に耳を当てると、さらさらポコッポコさらさらさらポコさらさら、と水の流れるような音が聞こえることがある。
その音を、樹木が水を吸い上げる音だという人もいれば、そうではないだろうという人もいる。その音の正体に興味がないわけではないが、私にとって大事なことは、樹木に触れ、そのゴツゴツした、あるいはスベスベした感触、匂い、空気、生命の鼓動を感じることだ。そして、いつも聞こえるわけではない、その水の流れのような音が聞こえたときの驚きと感激を大切にしたい。
保育園からの帰り道、息子の太一が「風の色は、小川の流れに似ているね」とつぶやいた。風の「色」なんて考えたことがなかったし、「風」そのものが目に見えるかどうかもよく分からない。しかし、言われてみると、小川の流れの色は風の色のイメージに近いかもしれないと思う。
おそらく、太一自身も視覚的な意味だけで「風の色」と言っているのではないのだ
ろうが、彼は彼なりに風を、風の色を小川の流れに近いと感じたのではないだろうか。
学生時代、公園でなにげなく樹を眺めている時、その樹の葉の色が一枚一枚違って見え
ることに気がついてとても驚いた。考えてみれば、形も色もまったく同じ木の葉なんて在
り得ないし、風や光と影の加減で同じように見えないことの方がむしろあたりまえなのか
もしれない。けれど、その時はそれが自分にとって特別な発見のようで、木の葉一枚一枚
の存在が不思議で仕方がなく妙に感動したことを今でも憶えている。それ以来、私にとっ
て植物や自然界は常に不思議で満ちていたし、今では畑の野菜たちが毎日のように私を驚
かせてくれる。
種を蒔いた覚えもないのに大きなカボチャが土手に這っていたり、小さな玉ねぎの中に
一つだけ立派な玉ねぎが奇跡のようにころがっていたり、毎日毎日採ってもとってもイン
ゲンの実がなっていたり、採りたてのとうもろこしやきゅうりの美味しさ、宝石のように
美しい花豆、などなど書き出したらきりがないほど畑には不思議や驚きがごろごろしてい
る。
わたしはふしぎでたまらない、
黒い雲からふる雨が、
銀にひかっていることが。
わたしはふしぎでたまらない、
青いくわの葉たべている、
かいこが白くなることが。
わたしはふしぎでたまらない、
たれもいじらぬ夕顔が、
ひとりでぱらりと開くのが。
わたしはふしぎでたまらない、
たれにきいてもわらってて、
あたりまえだ、ということが。
これは金子みすずの詩だが、一粒の種が、芽を出し成長して、花を咲かせ実をつける。そして、その実は私たちにとって美味しい食べ物となる。これは言ってしまえば「あたりまえ」のことだが、種が芽を出すことも、その実が美味しいと感じられることも不思議で奇跡的な自然の恵みと言えないだろうか。そもそも、植物が酸素を生み出すことも神秘的な自然界の営みであり、それによって生かされている動物たちの生命もまた奇跡的な「あたりまえ」に違いない。
こう考えると、身のまわりにある当たり前の存在や、なんでもない当然の出来事が、とても不思議に思えてきて、今まで気に留めなかった事柄はもちろん、害虫や雑草として忌み嫌ってきた生き物たちでさえ、なにか新しい意味を帯びて見えてくる。そんな畑に立つ毎日が、私は面白くてたまらない。
