顔のある野菜|和田くんの就農スケッチ

和田会長

「おまえは、自分が世界でいちばん大事なものだなぞと思っとるかぎり、まわりの世界を本当に理解することはできん。おまえは…あらゆるものから切り離された自分しか見えんのだ」

「さて、この小さな友だちに話しかけることにしよう」と、小さな植物を指して言う。そのまま彼はひざまずき、やさしく撫でて話しはじめる。「なにを話しかけるかってことは問題じゃない。ただ、なにかを話しかければいいんだ。大事なのは、それが好きだという気持ちと、それを自分と平等に扱うということさ」

これは、文化人類学を専攻するアメリカの学生カルロス・カスタネダが弟子入りした、メキシコ原住民の呪術師(シャーマン)の言葉だ。

「それを自分と平等に扱うということ」は、「植物には意志や意識がないといった先入観を捨て、自分と植物との境界をなくすこと」と言ってもよいかもしれない。先入観を取り払うことは容易ではないけど、このような教えを信じるならば、呪術師(シャーマン)や特別な修行を積んだ者でなくとも、植物との会話は可能なように思える。

また、植物の神秘生活という本によれば、植物のコミュニケーション能力は、私たちが考える以上に、はるかに高いらしい。植物は仲間どうし互いに情報交換をしているだけでなく、人間の感情や意識を読み取る能力をも備えているという。植物は、人の心や人となりを察知することができ、自分たちにとっての敵味方を見分けるのだという。その場かぎりの嘘やごまかしは通用しないのだそうだ。考えようによっては、植物は、人間よりも高等な生物だと言うこともできる。たしかに、その生命力の強さ、とくに種としての生存能力の高さは、人間の比ではない。

就農前、私は「顔のある野菜」を育てることを、理想として思い描いていた。食糧としての野菜(生きる糧として、お腹を満たすもの)、おいしい野菜(食べて味わう喜び)、販売に堪えうる野菜(仕事・職業としての農業)は、この4年間で、なんとか少しはできてきた。あとは、それらの質をより向上させ、継続すること。そして、最後に残された課題が、「顔のある野菜」である。

佳子(よっちゃん)の焼く天然酵母のパンは、ひとつひとつに「顔」がある。それらは物静かだが、各々がしっかりと自己を表現しつつ存在している。まさに、この世界にただひとつの「他ではない、このパン」なのだ。天然の酵母を集め育て、充分に吟味した材料を揃え、時間をかけて生地を練り、温度を整えて醗酵の時を待ち、そして自家製の石窯で焼き上げる。手間と時間と心をかけて、ようやく「顔のあるパン」は実現する。

それは、野菜でも可能だろうか。

植物は、手をかけ、気にかけ、声をかけてやると、よく育つ。今年のわが家は全般的に豊作であったが、中でもインゲンと春菊はよいものができた。出荷用として数十種類の野菜を育てているが、私はこの2つが好きで、どうしても特別にかわいがってしまう。好きだから、うまく育つのかもしれない。

手を掛けたものは、野菜も畑も土も、おしなべて愛おしい。その気持ちは確かだ。しかし、それでも野菜に「顔」は現れない。世界にただひとつの「このインゲン」。ほかのどこにもない「この春菊」。顔を持った野菜は、それほどに在り難い。

農業を生業としている以上、家族が食べていくだけのまとまった稼ぎを、野菜の売上げで得なければならない。そのためには、わが家のような零細農家でさえ、数万単位の野菜の出荷が必要となる。農繁期には、野菜の収穫と出荷に追われ、除草や種まきなどの農作業に忙殺されて、野菜と充分な会話ができていない。お互いに納得がいくだけの会話の時間が不足しているのだ。野菜の値段が上がれば栽培量を減らすことができて、もっと時間をかけて野菜たちと接することもできるだろうけれど、食糧としての野菜の妥当な価格を考えると、値上げは本意ではない。

有機農産物の流通現場でさえ、野菜の「均一化・無個性化」が求められる。そして農家は、あまりに忙しい。私は、顔の見えない野菜たちの声に耳を塞ぎながら、それでも「野菜の顔」を求めつづけるのだろうか。

この文章を書いた人
和田くん
愛妻よっちゃんとは、勤務先の野菜宅配会社で出会った。結婚後、野菜宅配会社を辞め、群馬県の倉渕へ移住。くらぶち草の会に加わり、有機農業を始める。現在は、新規就農者の世話を焼くのが、なにより楽しいらしい。手塚治虫のファンで、全集400巻を揃える。